さぬきの国から(4)
~ 善通寺(ぜんつうじ) 与謝野晶子・寛の歌碑 ~
氏家長子
(1)はじめに
与謝野晶子は全国各地をまわり数多くの歌を詠み、それを
贈りものとして残しました。昭和6年(1931年)
10月31日、ここ香川県善通寺市にも寛とともに訪れまし
た。当時の交通事情を考えるとかなりの長旅、よく来て
くださったと感慨深いものがあります。その時のお二人の
贈りものを土地の人びとは石に刻み、故郷のシンボルと
して大切に守っています。今回は善通寺市にある晶子と
寛の歌碑を紹介したいと思います。
(2)善通寺市とお遍路さん
香川県善通寺市は弘法大師空海の御誕生の地です。
四国霊場第75番札所、総本山善通寺があり、お寺の
名前が市の名前、弘法大師のお父様佐伯善通(よしみち)
に由来するそうです。昨年、弘法大師生誕1250年を
迎え、さまざまなイベントが開催されました。
市内には、四国霊場第72番から76番札所までの5つ
のお寺が近距離にあり、お遍路さんの御朱印帳もここ
で一気に進みます。一年を通して多くのお遍路さんや
観光客が訪れていますが、特に春は四国霊場
八十八カ所巡りには絶好の季節。菜の花畑や桜に
囲まれ、同行二人と書かれた菅笠、白装束、鈴の音、
美しき四国を見ることが出来ます。
(善通寺五重塔)
(3)出釈迦寺と歌碑
第73番札所は我拝師山(がはいしさん)出釈迦寺
(しゅっしゃかじ)。出釈迦寺から山道を1.8㎞ほど登ると
奥の院、さらに登ると弘法大師が7歳の時に身を投げ
たという捨身ヶ嶽(しゃしんがだけ)があります。
身を投げた幼少の弘法大師は天女を連れた釈迦如来
に抱きとめられて崖の上に返されたという伝説が残って
います。
この出釈迦寺に与謝野晶子・寛歌碑庭園があります。
昭和6年秋、晶子と寛は当時の善通寺高等女学校
で講演を行いました。その女学校の教諭が所蔵して
いた晶子自筆の色紙が平成18年に発見され、
この歌碑庭園が作られたそうです。歌にはこのあたり
の歴史や伝説が詠み込まれています。
左側の小さめのおむすび型が晶子、右側が鉄幹の
歌碑です。
讃岐路は浄土めきたり秋の日の五岳の
おくにおつることさへ 晶子
*五岳は我拝師山を含むこのあたりの5つの山のこと
たもとぶり西上人も見しならん飯野(いいの)
の山のわが道に立つ 寛
また、この庭園の手前には、西行と中城ふみ子の歌碑
もあります。
筆の山にかき登りても見つるかな苔の下なる岩の気色を
西行(大西きくゑ書)
出奔せし夫が住みゐるてふ四国目とづれば不思議に
美しき島よ 中城ふみ子
出釈迦寺のすぐ近くには西行庵が残っています。
この地で西行も歌を詠みました。四国を美しき島と
詠んだ中城ふみ子は、夫の転勤で一時期高松市に住ん
でいました。
(4)おわりに
与謝野晶子の当時の活躍を考えると、この地を訪れた
ときの地元の人びとの熱狂ぶりが想像できます。
地方の小さな町にも短歌ブームが巻き起こったに違い
ありません。
善通寺市には昭和22年発足の「善通寺歌話会」という
短歌会があります。多いときは50人以上の会員がいた
そうですが、今は20人くらい。りとむの香川県メンバー
4人はこの会で出 会い、現在も市民会館に月に一度集
まって研鑽を積んでいます。歌話会の大先輩には
善通寺高等女学校で晶子と寛の講演を聴いた生徒
さんがいたかもしれません。与謝野晶子の偉業の一つは
全国各地で短歌の種を播いてくれたこと、そしてそれは
1200年前の弘法大師の活躍とも重なるような気がしてなりません。
寛の歌に詠まれている飯野山(讃岐富士)
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