会 員 の 広 場

<41>「  何処を掘っても、鎌倉は 」
  
2022年6月


加 納  亜 津 代



    何処を掘っても鎌倉は       加納亜津代

  どこを掘っても何かしら出る鎌倉ぞ発掘前の更地のしずけき
              山川未生「りとむ」2017年9月号

   この一首が鎌倉を言い当てていると思う。作者の山川さんは鎌倉

  駅近くに居をかまえているので、市内の発掘調査の様子をしば

  しば目にするのであろう。大きな建物も個人の住宅も建て替えと

  なれば、まずは市の発掘調査が入る。そして、掘れば必ず「昔の

  なにか」が出てくる。

   ところで、鎌倉市は埋蔵文化財発掘調査の報告書を公開してい

 る。八幡宮近くの地に発掘された遺構の文書は84ページにもなるも

 のである。八幡宮へ向かう段葛の右側のM‘SARK KAMAKURA

 (エムズアークカマクラ)というビルの中に、その遺構の一部が

 展示されている。ここは北條時房邸跡と推測されている。ビルの

 床の一部がガラス張りで、覗き見ると柱の穴や、芥の穴と思われ

 るものをこの目で見ることが出来る。当時の生活の一部を想像さ

 せる。

 

  一方、八幡宮の賑わいを避けて、駅の西口を少し進むと、閑静

 な住宅地の扇ヶ谷に「鎌倉歴史文化交流館」がある。

 ノーマン・フォスター氏が手掛けた個人住宅を市がリノベーション

 した博物館で、市内で発掘された諸々が展示されている。

  鎌倉国宝館は八幡宮に隣り合っているので訪れる人もあるが、

 こちらは何時行っても来館者が少ない。ゆえにゆっくり、のんびり

 時間の許すかぎり滞在できる。

  広い中庭に出ると、岩肌に「やぐら」と呼ばれる洞穴が残されて

 いる。昔の墳墓である。鎌倉市教育委員会によると、市内に3000基

 ほどが確認されているというから驚きである。

  30年ほど前に市の歴史散歩に参加して、瑞泉寺の裏山の紅葉ヶ谷

 のやぐらを訪ねた時に、穴の奥にきらきらと光る白い粉と見紛う

 破片を見た。あれは800年前の人骨かしら?と、一瞬厳粛な気分

 になった。

  「やぐら」の写真を添付したいが、あいにく現在は展示入れ替え中

 のため休館で残念。

  さて、私の住む七里ヶ浜は1970年代に西武不動産が山一つを開発

 した地で、ここに住んでいるということだけで鎌倉婦人などと言って

 いただくこともあるが、厳密には「鎌倉人」とは言えないらしい。

 やはり100年~200年ここに居を構えていないのは侵入者と見做さ

 れるのかも。ただ、廃線寸前だった江ノ島電鉄に通勤客と通学者が

 激増して、今や立派な観光路線にしたのは新鎌倉人であろう。

  20数年まえに、日経新聞に連載された渡辺淳一の『失楽園』で

 脚光を浴びた鎌倉プリンスホテルのウエディング・ホールが海に

 向かって建っていて、その近辺はTVドラマの絶好なロケーション

 である。

  冬の朝は江の島の向こうの海の上に富士山がくっきりと浮かび、

 夕べには驚くほどの真っ赤な入り陽が空と海を染める。それはまこと

 に美しい。

  (七里ガ浜から見る冬の富士山)

 


  現在、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は北条一族の栄華

 盛衰を三谷幸喜のシナリオでユニークな物語が展開している。

 そのなかで義経が平泉にて首をはねられる場面が放映された。

 『吾妻鏡』によれば、義経は奥州、衣川にて自害したと書かれて

 いる。

 ここ鎌倉では義経は七里ガ浜の隣の腰越から鎌倉に入ることを禁

 じられたというのが通説である。そこの満福寺に義経が頼朝に宛

 てた「詫状」が今も保存されている。義経はその後、東北から大陸

 に逃げてチンギスカンになったなどの伝承の方がなぜか面白い。

(義経詫状)
 


  ごんごんと入り陽の沈む腰越に義経詫状ひたすら詫びる
                
             『香魚』 加納亜津代




 
【 トップページへ     【 バックナンバーへ 】

inserted by FC2 system