*うつぼ界隈街あるき* 栗 田 明 代
りとむ関西歌会には、現在大阪市内中心部に住む会員はいません
が、関西弁で通じる仲間に東や西のりとむのメンバーが合流する形
のホンワカした歌会のムードはオンラインでも同じです。あらためて
大阪の街をご案内するには知識の足りない筆者ですが、梅田から
西区方面へ靭公園を中心にぐるっと歩いてみましょう。コロナ禍が
落ち着いた暁には来阪の手引きとなれば幸いです。
Ⅰ 阪急電車大阪梅田駅
ターミナル形式のホームに神戸線、宝塚線、京都線の3路線が集
結し、艶やかなマルーン色の車両がひっきりなしに出入りする様子
は、JRや他の私鉄にはないインスタ映えする光景です。撮り鉄や
乗り鉄の期待を裏切りません。
Ⅱ 御堂筋
① 中之島 銀杏並木の御堂筋は南行き一方通行。梅田(うめ)新
道(しん)手前の「そねざきけいさつ」の看板を確認したら淀屋橋ま
で一気に南下します。堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島は大阪
の心臓部。数年前の公会堂での歌会の光景が甦ります。
パリ・セーヌ川のシテ島やローマ・テヴェレ川のティベリーナ島と
同様、その都市の景観を象徴する「よそゆきの貌」を見せ、
今では京阪電車で京都市内の出町柳から直通で中之島に到達
できます。淀川を上り下りした「くらわんか舟」の時代とは大違
い。そういえば、大阪の市街図を左に90度回転させると大阪城
が真上(北)にきて、川筋から天下の台所の実態が解ると
「大阪学」の専門家が述べています。
(籔田貫著『武士の町 大坂』など参照) 港から船が淀川を遡って
都へ、或いは安治川から堂島浜、北浜に荷揚げされた米や薬の
材料などロジスティクスを追えば、町を発展させた活気が感じ取れ
るという訳です。
② 御霊(ごりょう)神社(じんじゃ)さて、淀屋橋から少し南西に入る
と 緑豊かな御霊神社が見つかります。実は数年前、息子が
ここで親族だけのささやかな結婚式を挙げました。境内を散策中
の外国人や参詣者がスマホを手に集まってきて拍手が起こり、
よい船出となりました。社務所前には大阪大空襲で焼け残った
楠が再生し 「肌守りのご神木」との評判が立ち、火傷や皮膚病
の快癒を願う参拝も多いと聞きます。
③ 南北御堂と難波神社 北御堂(本願寺津村別院)と南御堂
(本願寺難波別院)を繋ぐ参詣路だった御堂筋が今では大阪の
メインストリート。南御堂の芭蕉の句碑は翁の終焉の地がこんな
街中に?と驚きます。並ぶ難波神社は御影石の石塀と楠の大樹が
目印。端午の節句の頃、頼めば池の菖蒲を株分けしてもらえるとか。
また、社務所に長く勤めていた姉の話によると、俳優の高橋英樹
さんは大阪での舞台や公演の前には家族揃って成功祈願の参拝
に来られ、幼い真麻さんの姿も見られたそうです。
旅に病でゆめは枯野をかけまはる ばせを
Ⅲ 靭公園界隈
① 土佐稲荷 御堂筋から四つ橋筋、なにわ筋、あみだ池筋へと
西に移動するにつれ何とはなしに街は昭和の色を帯びてきます。
堀江にある土佐稲荷は土佐藩邸跡、岩崎彌太郎・三菱グループ
の聖地で、三菱の紋瓦が目を引きますが、高知県出身者でも知る
人の少ない隠れスポット。この辺りには旧藩邸に因む阿波座、
江戸堀、京町堀、肥後橋、土佐堀、鰹坐橋、など川筋が埋められ
た後も<橋><堀>のつく町名が多く、古地図で調べ出したらき
りがありません。
② 立賣堀ビルディング 立売堀は「いたちぼり」と読み、名前の
由来は諸説ありますが、京都の中立売「なかたちうり」と紛らわ
しいとは大阪人の薀蓄です。四つ橋筋に面した立賣堀ビルディン
グは1927年竣工といいますから、民間の商業ビルとしては結構
年季もの。レトロな外観とマッチする靴、帽子、テーラーメイドの
紳士服など拘りある専門店が1階に、階上は貸事務所でベンチャー
を志す若い企業家に人気だとか。2階の筆耕事務所に仕事で出入
りする関係で、ビルのオーナー兼管理人とも顔なじみです。
自社ビル愛の強い方ですが、店子はみな互いに挨拶して建物の
共用部を丁寧に扱うルールを守りストレスなし。むしろ戦災や震災
に遭うも生き残ったこのビルの強運にあやかろうというもの。
「ねぢ」の看板が目立つ店の隣りです。
➂楠永神社(なんえいじんじゃ)今ではテニスコートで有名な靭
(うつぼ)公園(こうえん)は東西に細長く戦後駐留軍の飛行場跡
といいます。「かつての靭塩干魚市場の跡地だった唯一の名残
というべき楠永神社(なんえいじんじゃ)の大楠は、飛行場建設の
際伐採されようとした時けが人や重機の故障が相次ぎ、お祓い
したところ社殿から白蛇が出てきて伐られずに残った。」とwikiは
伝えています。先の御霊神社とのご縁を感じる立派な楠です。
④広告燐寸 幼い頃父の会社近くの原っぱに野球の試合を観に
きたのがこの靭公園だと聞かされ「ヘェーそうだったのか!」
の心境です。対戦相手も勝敗も記憶になく、草野球に興じる
オッサンや兄ちゃんたちの姿が今も瞼に浮かびます。戦後の
復興期、集団就職の若人が中小企業の発展を支え、町内の
草野球でも活躍したといういかにも昭和っぽい話です。父の
広告燐寸の会社に入った徳之島出身のK君は、仕事の出来は
さておき野球で本領発揮した人懐っこい青年。鹿児島県人会・
徳之島組の絆は強く、同郷の仲間も助っ人に来てくれたそうです。
K君の島土産といえばパパイヤ漬とボンタン飴…南国の独特な
味と香りは京町堀の会社と父を思い起こさせます。
まったりした浪花ことばの父の声ふと甦る顔より先に
栗田明代
余談ですが、製品の燐寸は当時ほぼ100パーセント播州の姫路
で生産され、箱のデザインを顧客に提案し納品して会社を廻して
いた時代です。昭和の名残の燐寸の写真をご覧ください。
Ⅳ 江戸堀~土佐堀
① 大阪教会 北上して目に留まるのは江戸堀の日本基督教団
大阪教会。W.M.ヴォ―リス設計、と聞けば同志社や神戸女学院、
関西学院、梅花などプロテスタントの学園が連想されます。
ある日、友人とこの教会の佇まいに惹かれ「見学自由」と書か
れた扉を開けた時のことです。珍しいフランス積みの煉瓦の外壁
について牧師に伺うと、震災後の復旧には相当苦労されたとのこ
と。当時の炊き出しや支援の作業に話が及ぶと、我々も手を合わ
せて祈るひと時でした。礼拝堂の奥のパイプオルガンは素晴らし
く、背後のバラ窓から射しこむ柔らかい光につつまれ、初期化して
ゆく自分を感じ たものです。
*現在個別の見学は不可、礼拝にどうぞ、とのことです。
② 梅花女学校 土佐堀に出て、あの山川登美子が通った梅花
女學校発祥の地がこの辺りだと思い出しました。住友村と呼ば
れる土佐堀一帯のビル群の一つの壁面にその碑はあり、大阪
教会も徒歩圏内。初代校長だった成瀬仁蔵は日本女子大学の
設立に尽くした恩師ですから、姉いよが嫁いだ河家に寄寓し
女学校に通った登美子には、希望にあふれた日々だったは
ずです。運命を左右する鉄幹や晶子に出逢うわずか数年前、
この中之島のウェストエンドの先、浪速津の海はうら若き登美子
にはどんな色に映ったのでしょう。『図録・山川登美子』には弟の
山川亮氏が解説する登美子の自筆詠草が載っており、
16歳の少女の水茎かと驚くほどの美しさです。
須磨の浦もしほの煙あとたへて月に先き立つ郭公(ほととぎす)也
山川登美子『詠草集』
浪華津の梅の園生(そのふ)におひ立ちてかをり初めしは師の
君の恩『山川登美子歌集』今野寿美p.110未発表歌(『詠草』)
➂ リーガロイヤルホテル さて、そろそろ脚も限界なので、肥後橋
から西梅田へ四つ橋線で帰りたいところですが、頑張って土佐
堀川を渡り中之島のリーガロイヤルホテルでゆっくりお茶をして、
ホテルの無料送迎バスで梅田に戻る方法がお薦めです。
まだまだ行きたい場所はありますが、またの機会に取っておき
ましょう。本日はこの辺でお開きにいたします。
皆さまお疲れさまでした。
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