ふ た つ の 『 ペ ス ト 』 池 田 和 彦
コ ロ ナ 疫 禍
もうすこしすれば時疫は二年に及ぶのだと思うと、とても悲
しくなります。初めのころのことはあやふやになっていますが、
横浜港でのダイヤモンド・プリンセス号の感染事件からほどなく、
日本の市中でコロナ疫が拡がってゆきました。
高齢者施設に勤務するわたくしはこの感染症が施設に入って
くるのをなんとしても防がなければなりません。国からのお達し
などをもとにして種々対 を始めたのでした。マスクや消毒液が
一気に乏しくなって切ない思いをしたものです。
この疫病(エピデミー)にたいして、欧米ではCOVID-19
という符丁がつけられました。日本ではコロナ禍と呼ばれたり、
単にコロナと呼ばれます。とても安直な符丁です。疫病だとい
うことば感覚が日本では乏しいように思われます。この感染症は
疫であり、時疫です。コロナ疫あるいはコロナ疫禍くらいのこと
ばは欲しいものです。
感染症はまたたく間に世界に拡がってゆきました。ドイツ語や
フランス語ではパンデミーと呼ばれます(わたくしは「万国疫」
と呼ぶことにしています)。こうして世界中に疫の懸念がひろ
がっていったとき、いくつかの参考書が挙げられました。
イタリアの『コロナの時代の僕ら』という訳書も読んでみました
が、本は表題で売るものだと思った程度でした。なにより推さ
れていたのは、カミュの『ペスト』です。
半世紀 医学徒われの手にしたる新潮『ペスト』版重ね来ぬ
新 潮 文 庫 『 ペ ス ト 』
その頃はもう図書館が不要不急を理由に閉じられていました。
そこでアマゾンの通販で『ペスト』(カミュ著、宮崎嶺雄訳、
新潮文庫) を注文しました。ついでにガリマール社の『La Peste』
の古書が二束三文で出ていたので、これもたのみました。
古書のほうはいくら待っても届かず、不義理な沙汰止みになった
ようです。カミュの『ペスト』原著についていえば、日本の青空
文庫のようにインターネットですぐに読めますし、英訳も独訳
もまたネット上でただで読めるのでした。
宮崎訳の新潮『ペスト』のほうもずいぶんと待たされました。
コロナ疫禍のもとでの需要が過多で、大増刷をしているようすで
した。わたくしが手にした文庫本の奥付に日付があります。
昭和四十四年十月三十日 発行、令和二年三月五日 八十五版。
この宮崎訳『ペスト』については、以下にしるす岩波文庫
『ペスト』の三野博司が解説でこう書いています。「宮崎嶺雄訳
(新潮文庫) を参考にさせていただいた。文庫化に先立って
一九五〇年創元社から刊行され、『異邦人』の翻訳より一年
早く、カミュの作品を最初にわが国に紹介したこの記念碑的
業績に敬意を表したい」。
コロナ疫ふたとせに入る春四月 岩波文庫『ペスト』出でたり
岩 波 文 庫 『 ペ ス ト 』
こちらのほうは、2021年4月15日 第1刷発行、訳者 三野博司、
とあります。まだ刊行されて五か月ほど、出来たてのほやほやです。
新潮文庫『ペスト』にくらべるとずいぶん分厚い。それは、訳注と
カミュ年譜と解説が巻末にたっぷり載っているからです。ペスト疫
の舞台となるオランの街の訳者手づくりの地図さえあります。
新訳はほんとうに読みやすくなっています。本書の編集者は、
「七十年ぶりの新訳なので、一般読者にも専門家にも「いい訳が
出たね」と納得してもらえるものを出したい」といったようです。
わたくしも一般読者として、読みやすい、とてもいい訳だと思い
ます。
誠実さ(オネットテ) この可笑しげなフランス語が『ペスト』
の疫の灯火なりき
今般、歌集『疫の時代に』を出したおり、今野寿美先生はこの歌
を帯文に挙げてくださいました。ここの誠実さは、宮崎訳の
『ペスト』から引用したものです。こうありました。
「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」(245頁)。
のちにみた三野訳『ペスト』のそのあたりの個所を、転写して
みま しょう。「・・・これらすべてはヒロイズムとは関わりがな
い。
誠実さの 問題なんだ。こんなことを言うと笑われるかもしれない
が、でも、 ペストと闘う唯一の方法、それは誠実さなんだ」
(243~244頁)。
おなじ意味ですが、テイストはちがいます。宮崎、三野両氏が
<誠実さ>と訳したカミュの原語は<honnêteté>
(オネットテ)という もので、これはわたくしどもの日本語の耳
にはすこし可笑しく響くでしょう。
カミュの「『ペスト』拾遺」
ところで新潮社の『カミュ全集』第4巻(昭和五十二年)は宮崎
嶺雄訳の「ペスト」と同氏訳の「『ペスト』拾遺」の二者からなって
います。拾遺のほうは上述の両文庫には収められていません。
この拾遺の前半部は「ペストの医師たちへの勧告」というタイトル
で、とても奇妙な短文です。ペストの医者たちがいまだ黒い帽子
をかぶり、くちばし型の全面マスクをつけ、油布で全身をかくして
いた時代のその医者たちへのカミュの忠告です。
ごく最近新訳がなされ、またその解題も出ています。
カミュ「ペストの医師たちへの勧告」(渡辺惟央訳)、
https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/5147
「ペストの医師たちへの勧告」解題(渡辺惟央),
https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/5148)
ガリマール社配布の「ペストの医者への勧告」
訳者の渡辺惟央氏は解題のなかで、パリのコロナ疫禍のおり、
医療者を激励すべくガリマール社がこの原著をネットで無料配布
したとおしえてくれます。こう書いてあります。「2020年4月、
カミュの全作品を出版するガリマール社が、コロナ禍をきっか
けとして、この作品をオンライン上(電子ファイル形式)で無料
公開した。
フランスでは当時、コロナウイルスの感染拡大によって医療従事者
が過酷な業務を強いられていることが問題視され、毎日のように
報道されていた。(中略)そのような時期に、版元のガリマール社は
医療関係者への激励として本作を公開したのである」。
『ペストの医師たちへの勧告』の新訳を読んで、宮崎訳にみら
れた不明瞭さから逃れることができました。しかし、カミュが昔の
ペスト医にむかってその心構えや務めをしめしてゆきながらも、
ついには医師たちが陥らざるをえない絶望へと話を繋げてゆくとき、
わたくしにはこの短文が現下コロナ疫禍のなかで苦悶する医療看
護介護者をよく励ますとはとうてい思われないのでした。
この小文は『ペスト』の六年まえに書かれたようです。
ここでも出版社の悪知恵をみる思いです。
そうはいっても、この小文は『ペスト』を書くにあたってカミュが
精読したペスト疫のむかしの書物の知識知恵をわたくしどもに
おしえてくれる、優れた文芸であるのはたしかです。
(令和3年9月記す)
|