「小石川から神楽坂へ」〜江戸切絵図からたどる
啄木の俥の轍〜」 (後編) 中 山 春 美
前回は夕暮れの安藤坂を人力車で下る場面で終わりました。
さて、今回はその続きです。
安藤坂の中腹「中島歌子の萩の舎跡」の標識を左に見ながら
坂下で北野神社牛天神の参道入口を過ぎる。境内には歌子の歌碑
もある。また狛犬が親子で、母親は授乳中、父親は背に仔を遊ばせ
ている姿が珍しい。
ゆきのうちに根ざしかためて若竹の生ひ出むとしの
光をぞ思ふ 中島歌子
⇑ 北野神社
⇑ 歌子の歌碑
⇑ 狛犬
坂をを下りきって神田上水あとの信号を渡ると、切絵図の古道は
新しい自動車道によって断ち切られてしまった。困っていたら、道路
の向こうの高層ビルの谷間になにやら古道と重なる新しい道路が遺
されているではないか。夫は感激の面もちである。それから切絵図
どおりに立慶橋(現在は隆慶橋)を渡る。神田川の上を高速道路が走
っていて薄暗いのが残念だ。
さぁ、立慶橋を渡ると新宿区、やっと神楽坂が近付いてくる。
啄木も車夫も気合いを入れる頃合いか。左へ歩いて今は目白通り
の信号を渡り右折直進していくと不思議な突き当たりに出た。建設
現場のすぐ先、新しいビルが肩を寄せあう中に、逆「くの字」に小さ
く曲がってなんとも不自然な一角だが、確認すると何と切絵図どお
りなので驚く。160年前から保存された時間の吹き溜まりのような
場所だ。感慨を催す一幕である。荷風先生と繋がった気分の夫と
さらに直進する。JCHO東京新宿メディカルセンターの渡り廊下の下
をくぐり、津久戸小学校の脇を通って軽子坂を横断、そのまま神楽坂
仲通りへ進む。かくれんぼ横丁を横目に神楽坂通りまでひたすら
直進する。
そして、やっと神楽坂通りに出る。心も弾み一気に視界が細長く
広がる。「旦那、神楽坂ですよ!」の声に明るく頷く啄木が見える。
坂下からは急な勾配だが、この中腹から坂上までは緩やかなので
車夫もきっとこのルートを選んだと思えてくる。
⇑ 神楽坂通り
武家屋敷や寺社仏閣の江戸時代から明治期には住宅街商店街へと
発展してきた神楽坂は文人の街でもあった。大正昭和期には花柳界が
最盛期を迎える。昭和30年代、私の幼い時は粋な大人の街であり現在
のような観光客はほとんど見かけなかったように思う。
さて、俥の轍を追おう。ゆるゆると坂上へ進むとこの街のシンボル
善国寺の毘沙門様が見えてくる。四月の花祭りには子供達が多く集ま
り、私もその中の一人だった。境内の狛犬が虎の姿なのは、毘沙門天
が寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に現れた故事に由来する。なんと
も愛敬のある姿態が楽しい。
⇑ 毘沙門天
そして、その斜め向かい側に目指す相馬屋がある。創業約360年の
老舗で、尾崎紅葉のアドバイスで本邦初の升目入り原稿用紙を作った
ことで知られている。漱石や白秋、多くの作家達に愛用され、その原
稿資料が店内に展示されているので一見の価値あり。野坂昭如や
山田洋次監督が近くの和可奈旅館に籠もった時は原稿用紙と筆記具
のセットをよく届けに行ったと、お店の方から伺った。
⇑ 相馬屋
こで終点。原稿用紙と帳面、クロポトキンの『ロシア文学』を大切
に抱え、眼鏡も上気して曇っていただろう俥上の啄木を、心で見
送る。
始点の久堅から徒歩で約40分の行程を地図でなぞると2,75km
だった。人力車は通常、時速6~8kmで走るというが、啄木の俥は
坂や路地を考慮して片道30分くらいはかかったろうか。この日の
日記には、俥代もすべて含めて四円五十銭つかったとある。ささや
かな贅沢だったろう。
三枝昂之先生の名著『啄木ーふるさとの空遠みかも』第三章の啄木
が胸に迫る。
これにてミッションも無事完了。マスクも暑い。切絵図を仕舞い、
ひと息入れようとBarを探す夫を「ギムレットには早すぎます」と
相馬屋並びのカフェPAULへ誘う。ビールセットを頼んだのは言う
までもない。
ここまでお読みくださりありがとうございました。アスファルト
の下に眠る土地の声を聞きながら、古地図との旅はまだまだ続き
そうですが、
皆様もぜひ街歩きをお楽しみくださいませ。
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