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会 員 の 広 場
<24>「 さぬきの国から(2)」
~瀬戸大橋・丸亀~
2020年2月氏 家 長 子
「さぬきの国から(2) ~瀬戸大橋・丸亀~ 」 氏 家 長 子
小学生の頃、遠足で近くの山に登った。山の頂上からは瀬戸内海と
対岸の岡山県を望むことができた。そのとき担任の先生が海を指さし、
「あそこに橋が架かるのよ。あなたたちが大人になったら、橋を渡って岡
山に行けるのです。」とおっしゃった。私たちは一斉に「えー?、うそー!」
と叫んだ。先生は「人類が月に行ける時代なのですよ」ともおっしゃった。
たしかにその何年か前、アポロ11号の船長が月に降り立った。けれども
私たちは、海に橋が架かるなんて信じられなかった。それは月に行くより
も遠い遠い話に思っていた。
やがて担任の先生の話は、現実のものとなった。瀬戸大橋は1978年着
工、総工費1兆1,300億円、約10年の年月をかけて1988年に完成、
開通を見た。幅35m、全長12,3kmを吊り橋、斜張橋、トラス橋の3種
類の橋が連続する。上側が高速道路(瀬戸中央道)、その下を鉄道(JR
瀬戸大橋線)が通り、四国と本州がわずか10分足らずで行き来できるよ
うになった。まさに夢の架け橋、四国に住む人々の長年の悲願が結実したのである。本当に長年の悲願だったのだ。昭和30年には濃霧のなか
出航した「紫雲丸」が他の船舶と衝突し、沈没した。168名の犠牲者のう
ち、100名が小・中学校の修学旅行生だった。橋があったらという思いは四国に住む人だれもが抱き続けていた。
開通後ほどなくして、昭和が幕を閉じた。戦後昭和の集大成ともいえる
瀬戸大橋は平成の時代とともに一昨年三十周年を迎えた。瀬戸大橋の次
に明石大橋、しまなみ海道が開通し、本州と四国が三本もの橋で繋がった
風光明媚な瀬戸内海国立公園の景観を損なうことなく、自然美と人工美が見事に調和した瀬戸内海の姿を見せている。
柿本人麻呂の碑が、瀬戸大橋を見守るように建っている。いにしえびとも
ふと、四国側の橋の起点、坂出市の沙弥島に目をやると、万葉の歌人
瀬戸大橋を見て、驚きながらもきっと喜んでいるはずだ。
この島には柿本人麻呂が船を着け、石の中の死人を見て作った歌が
残されている。
~玉藻よし讃岐の国は国柄か見れども飽かぬ神柄か・・・~
そして昨年5月、関東、関西のりとむの会員が、この橋を渡って四国
丸亀に集まってくれた。それはもう夢のような歌会が実現し、ただただ感激
した。橋にも感謝した。
・何もない讃岐へようこそおいでませ駅に三人娘は待ちぬ 山地ひさみ
その歌会が催された丸亀市について少し紹介したい。
市内にある丸亀城は、立派な石垣が有名で、その上にちょこんと天守閣
がある。丸亀市はかわいらしい城下町だ。団扇の生産日本一、骨付き鶏
が名物である。
丸亀市歌は、さだまさし作詞・作曲『城のある町』。歌詞中の見返り坂は
丸亀城内の急坂である。「どうにかなるさと 瀬戸の青い海」、私はこの
部分が気に入っている。
・丸亀城の見返り坂に振り返るボランティアガイドと歌人われら 乃川 櫻
その丸亀城の石垣が、一昨年の西日本豪雨をうけて崩れ始めたので
ある。大きな崩れが3回ほどあり、正面から見るとわからないが、裏に回
れば無惨な姿を晒している。いま修復工事を行っている。
・遠き日のマラソンコースも秘密の基地も石垣土砂に埋もれてゐたり
松繁 美吉
この30年間、四国は橋が架かったことによって、人の流れ、物の流れ
が大きく変わった。かつて四国と本州をつなぐ大動脈であった宇高航路は
昨年109年の歴史を閉じた。岡山で新幹線に乗り換えると、四国から京
阪神まで2時間、東京まで4時間半という時短、さらに高速道路の普及は
海運業に大きな打撃を与えた。
一方便利になった分、都会へ出て行った若者が帰って来なくなり、私の
住む地域も限界集落となった。いま香川県は、Uターン、Iターン事業に本
腰を入れて取り組み、地域活性化をめざしている。
私は現在、丸亀市にある通信制高校に勤めている。天気のよい日には
生徒たちと丸亀城に上り、この景色を一緒に見る。小学生の頃、担任の
先生が私たちに語ってくれたように、私も明るい未来を生徒たちに語りか
けたい。橋の向こう側にもこちら側にも夢や希望が満ちていると…。
橋のあるこの海を見るたび思うのである。