第  19  回  
(2018年12月

寺尾 登志子


         いつとなく心そらなる我が恋や富士の高嶺にかかる白雲

                                                相模 後拾遺和歌集八二五

    永承四年(1049)十一月、後冷泉天皇による内裏歌合が、関白左大臣

  藤原頼通の後援で華々しく催されました。この時代は歌合が頻繁に開かれ

  ましたが、相模は多くの歌合に招かれた当時の花形女流でした。主上や

  中宮、皇后、女房たち、殿上人の居並ぶ晴れがましい歌合で、「恋」の題で

  詠まれたのが掲出歌です。

     いつだって恋をすれば心はここにあらず、上の空になってしまうのが私の

  恋。富士の高嶺にかかっている白い雲のように。

    下の句は、幾つもの恋を経てまた新しい恋を得た作者のまなざしがとらえ

  た富士の実景と思えます。高雅な富士の山容が自分自身なら、恋はおのれ

 にまつわる白雲のようなもの。富士に雲のかからぬ日はないように、恋とはお

  のずとこの身に添えるもの。

    なかなか粋な味わいで、恋多き女の吐息がふと感じられますが、この歌、

  判定では「勝」とはならず引き分けと相成りました。

     それまで富士は神秘の山として「雪」と取り合わせるか、噴煙をあげて噴火

  するところから「恋(こひ)」の「ひ」と重ねて、恋を「火」や「煙」に託して詠むの

  が常套でした。

    斬新だがいささか、はずしすぎではあるまいか。伝統的な趣向が好まれる

  歌合では、そんな批評も出たかもしれません。

     相模ともあろうもの、そんなことは百も承知であったはず。けれども若き日に

  実際に眺めた富士の秀麗が忘れられず、実景として詠まずにいられなかった

  のです。

    十代で橘則長(のりなが)と結婚するも離別、大江公資(きんより)と再婚し、

  相模守となって下向する夫に同行した相模は、しかとその目で富士の姿を見

  ているはずですから。

     ちなみに熱烈な恋で結ばれた公資とも帰京後に別れ、中納言藤原定頼と

  交際するがやはり破綻。頼る夫も子もなく、失意でまとめた自撰家集

  『相模集』が歌壇の注目を集め、脚光を浴びたのでした。すでに四十代も半

  ばを迎えていましたが、以降三十年ほど遅咲きの花を咲かせ続けたのでした


  

 

   

 


  

  








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