第  17  回  
(2018年11月

寺尾 登志子


   留(とど)め置きて誰をあはれと思ひけん子はまさるらん子はまさりけり

                                               和泉式部 和泉式部集 四八五

     和泉式部にとって橘道貞との間に生まれた小式部内侍は、自慢の愛娘で

  した。ある時、幼い小式部が病気になり、別れた夫が見舞いを言って寄こす

  と、泉は即座に「撫子の花」や「小松」に娘をたとえた返歌を詠み返し、母の

  情愛を見せています。

    帥宮亡きあと、和泉は成長した小式部を伴って中宮彰子のもとに出仕しま

 すが、母親譲りの才気と物怖じしない社会性を持つ娘は、たちまち殿上人の

  注目を集め、華やかな恋愛の対象となってゆきます。

    藤原道長の二男、教通の子を小式部が生んだ時に、道長は「よめの子の

  子ねずみいかがなりぬらんあな愛(うつく)しと思ほゆるかな」と詠んで和泉を

  感激させています。「よめのこ」(ねずみの異称)に「嫁の子」、つまり「孫」を掛

  けた戯れ歌ですが、最大の権力者が、息子の愛人にすぎない小式部を「嫁」

  と呼ぶのは、破格の好意の表れといえましょう。

     けれども小式部と教通とは疎遠になり、万寿二年(1025)11月、小式部は

  藤原公成の子を生んですぐに亡くなります。まだ二十代の若さで、乳飲み子

   と幼子が後に残しての早世でした。母、和泉の悲嘆は激しく、哀切極まる二

  十数首の挽歌が『和泉式部集』に散見されます。その中で掲出歌は、ことに

  よく知られた一首です。

     娘はこの世に母や子供を留め置いて逝ってしまったけれど、死の瀬戸際

  に、誰をあわれと思ったことだろう。子供が一番いとおしかったに違いない。

  私が亡き娘をこんなに切なく思うのだから、娘だって我が子が最もいとおしい

  に決まっている。我が子こそかけがえのないものなのだ。

     この歌、『後拾遺和歌集』や『栄花物語』では、第三句が「思ふらん」となっ

  ていて、あの世で今、小式部がどう思っているかを母が推し量るかたちです。

     対して掲出歌の「けん」は過去推量の助動詞で、娘は母の追慕の情の中

  でしのばれています。こちらの方が、娘を失った喪失感をより強く感じさせる

  ように思うのですが、いかがでしょうか。








【トップページへ】    バックナンバーへ  】
inserted by FC2 system