第  38  回  
(2023年03月

寺尾 登志子

 

                      大 使 の 物 思 ひ 

           新羅へ向かう国内最後の寄港地である対馬では、遊行女婦ら

          が加わって、宴たけなわとなりました。その呼び水となったのは、

          大使・阿倍継麻呂の一首です。

             物思(も)ふと人には見えじ下紐(したびも)の下ゆ恋ふるに
             月そ経にける 巻十五・3708 

            歌で「物思ふ」と詠めば、それは恋しい人を思うこと。「見えじ」

         の「じ」は打ち消しの意志を示す助動詞なので、「(人から)見え

         ないようにしよう」、意訳すれば「人には見せまい」となります。

        「下紐」は下着の紐で、この紐が解ければ相手に会えるという俗信

        があり、一夜の別れに結んでくれた相手を思う大事なよすがです。

         「下」は「内に秘めた心」を意味し、「下紐の下ゆ」は、「秘めたる

         恋心から」を意味します。

         〈私が恋の物思いをしていると、他の人には見せまい。…内心、

         恋焦がれるうちに月が経ってしまったよ〉

            秋には帰ると言って難波津を出立したのに、はや黄葉の季節を

        迎えてしまった焦りと悲嘆を込めて歌っています。壱岐の島では、

        雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)を疫病で失い、ねんごろに弔って

         は来たものの、船団一行の心は、悲嘆と不安に覆われていたことで

         しょう。

        大使は、そんな部下たちの心を、せめて歌によって吐露させようと、

       自ら「物思ふ人」だと宣言してみせたのです。

          このあと続いて、家妻を恋う無記名作者による歌が八首並びます。

     いずれも家に土産の貝を拾おうとか、我妹子や家路を恋う内容です

       が、それらをもって、新羅へ向かう往路の歌は終わりとなります。

        その後、新羅との交渉は失敗し、国書を渡せぬままの帰還となりま

     した。帰路、罹患した大使は対馬で死去し、副使は感染が癒えぬまま、

    遅れての帰京となり、帰国の途は、宴や歌どころでなかった情況だろうと

    容易に想像がつくのです。

     この歌群の最後には一行の帰路の歌として、播磨国の「家島」で歌わ

   れた歌が五首載るのですが、おそらくそれは、使人たちの歌を編集した

       大伴家持が、自ら歌い添えたものといわれています。天平の疫病が

    蔓延する中を、新羅へと遣わされた使人たち。その歌々を物語風に

    まとめ、万葉集に載せることで、家持は彼らの悲劇を後世に伝えようと

     したのでしょう。

     令和のコロナ禍にみまわれた三年余り、私は145首にわたる遣新羅

    使人たちの歌を読み継ぎながら、いつか雪連宅満の眠る壱岐と、大使

    阿倍継麻呂が無念のうちに果てた対馬を、ぜひ訪れてみたいと思うの

    でした。


   

  

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