第  32  回  
(2022年8月

寺尾 登志子



                           大判官は歌会の演出家 

       阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使一行は、博多湾の唐泊

   (からどまり)から、引津(ひきつ)の亭(とまり)へと進みました。玄界灘

   に突き出た糸島半島の東岸から西側へと、陸沿いに30キロほど航路

   を進んだことになります。ここ引津の宿駅でも、幾日かの風待ちをした

   ようで、この地で詠まれた七首が記録されています。

     周防から豊前へと、命からがら漂流した一夜から一月半ほど経って

  おり、振り返ればいやまし募る望郷の思いが歌われています。口火を

  切ったのは、前回読んだ大判官でした。

   沖つ波高く立つ日に遭(あ)へりきと都の人は聞きてけむかも 
                                                 巻十五・3675 

   〈沖の波が高く立つ怖ろしい日に遭遇したのだったと、都で待つ人々

   は聞いてくれただろうか〉

    「遭へりき」は予期せず出くわす意の「遭ふ」に助動詞、完了存続の

  「り」と過去の「き」が付いて、恐怖の体験を追体験しているようです。

  「聞きてけむかも」の「てけむ」は完了の助動詞「つ」に過去推量の

  「けむ」が付いています。

     一行の海難事故は、その後停泊した「筑紫の館」から、駅馬で都

  へ伝えられたでしょうから、その知らせを「都の人」たちが聞いてくれ

  ただろうか、と思いを馳せるのです。もちろん、一番に伝えたいのは

  わが妻ですが、あえて「都の人」と広げて言ったところに、作者の思慮

  がうかがえます。自分個人の情感を押さえ、都への望郷の思いを添え

  たことで、そこにいる者たちの歌心に訴えたのでしょう。大判官の後に

  続く無記名歌の五首、それぞれの情趣をこらした旅愁と望郷の歌が

  並びます。

    大判官が遺した五首をつぶさに読むと、いずれも抒情の質に広がり

  と落ち着きが感じられ、その場の空気を敏感に読み取り、皆の抱える

  情緒を一首する手腕に長けていたようです。折々に開かれた歌会で、

  彼はペースメーカーとして他の歌人たちの歌心に刺激を与え、

  その場を盛り上げていたように思えるのです。


 
 

  

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