第  31  回  
(2022年7月

寺尾 登志子



                         阿倍継麻呂の七夕歌

          前回は、天平八年に派遣された遣新羅使のうち、往路で疫病 に

       没した雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)が、生前ただ一首遺した歌

       を読みました。周防市沖合いで漂流し、激しい波風に翻弄され、船

       底一枚下は地獄の恐怖と一晩中闘いながら、ようやく漂着した中津

       の海辺で詠まれた歌は「大君の命(みこと)恐み(かしこみ)大舟の行

       きのまにまに宿りするかも」で、天平官人の使命感と、宿命への諦念

       を感じさせるものでした。

          一行は中津に一週間ほど滞在した後、周防灘から関門海峡を通

       って響灘、玄界灘へと舵を取り、大宰府に近い筑紫館に到着し、

      一か月ほど滞在したようです。そこは、大陸、半島からの使節団を

      接待するための施設で、現在の福岡城二の丸東隣がその跡地と推

      定されています。   この筑紫館滞在中に作られた歌が十六首遺

     され、七夕の晩に天漢(あまのがわ)を仰いで作ったものが三首あり

     ます。その一首を紹介しましょう。

      秋萩ににほへる我が裳濡れぬとも君が御舟の綱し取りてば
                                                                            巻十五・3656 

    〈秋萩の花のように美しい私の裳が花の露でしとどに濡れるように、

     たとえぐっしょり濡れてしまおうとも、あなたのお舟の綱を、この手に

     取って岸にむすぶことができたらどんなに嬉しいことでしょう。〉

        この歌の作者は、七夕の「織女」に成り切って、彦星を待つ思いを

     歌っています。「裳」は女性が下半身にまとう衣服で、後世の袴、

     今のロングスカートというところ。濡れた女性の裳が肌にひったり貼り

     つくところに、万葉人は官能美を見出だしていましたから、この織女

     も美しいエロスをまとっています。

        また、秋萩は、山野を逍遥することの多かった万葉歌人がもっとも

   愛した野草で、上二句は織女の「裳」の美しさの比類ないことを伝えて

   います。同時に季節が夏から秋へと進んだことも示しています。

       この歌は左注に「右の一首は大使」とあることから、作者は使節団

   を統率する阿倍阿朝臣継麻呂だと分かります。難波の港を出港した

   のは六月初め、海原に浮き寝する旅も、はやひとつき余りとなりました。

 大使の阿倍継麻呂は七夕にかこつけて、みずから織女を演じることで、

   使節団一行の望郷の念を汲み取り、彼らを待つ妻女をしのばせるよす

   がとしたのでしょう。継麻呂の純粋な七夕歌の後に続く二首は、無名

   の使人による七夕歌で、望郷の念をたっぷりと伝えています。


 
   

  

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