第  30  回  
(2022年4月

寺尾 登志子



            雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の悲歌 

    天平八年(736)六月、時の朝廷は、朝鮮半島の新羅(しらぎ)に

      使節団を派遣しました。史書によれば、その前年、筑紫の大宰府管

      内で疫病が発生し、多くの人命が奪われ、やがて東へ畿内へと広が

      って、聖武天皇は大赦を命じたり税の免除をしています。

    そんな緊急事態になぜ半島へ使人たちを送ったかと言えば、新羅

   との関係が悪化し、一触即発という情況をどうにか打開しようという喫

  緊の目的があったからです。当時、疫病は半島から筑紫へ伝染したと

  考えられていましたから、外交上の難題を抱え、疫病の坩堝と思える土

  地に赴く使人たちの胸中は、いかばかり不安に満ちていたことか。

   八十人ほどの使節団を乗せて難波津を出帆した船は、瀬戸内海を

  一路、筑紫、壱岐、対馬そして新羅の釜山へと向かいます。巻十五

  は、その旅程で使人たちが故郷の妻を偲んで詠んだ歌や、停泊地の

  宴で詠じられた歌、旅の無聊を慰めるために吟じた古歌などが、

  「歌物語」風に編集されて歌群を形成しています。

   遣新羅使の往復は六、七ヶ月要したといいますから、その間、恵まれ

 た海路の日和ばかりでなく、荒天ともなれば船底一枚が生死の境目とな

 ったことでしょう。その年の使人たちは、難波を出港して半月ほど経た行

 程で逆風に遭い、大波にもまれて一夜を漂流しています。山口県周防

 市沖の佐波島(さばしま)を通過した辺りで流され、翌日大分県の海辺、

 中津に漂着しました。そこで、命からがらの一夜、前夜体験した艱難を

 思い出しながら人々の詠んだ八首があり、雪連宅満の次の一首はその

 冒頭歌です。

 大君の命(みこと)恐み(かしこみ)大舟の行きのまにまに宿りするかも 

 巻十五・3644 

  「大君の命」は帝のことば、勅命を意味します。「かしこみ」の「み」は

  「~なので」、「まにまに」は「~に従って」と訳します。

 〈大君の仰せは恐れおおいので、大君の御心そのものとして、大舟の行

 くに任せて旅の仮寝をするわれらであることよ〉

  「大君のみことかしこみ」は、奈良時代の官人意識を如実に表す慣用

 句ですが、命からがら一夜を漂った身にとっては、拒否できない宮仕え

 に対する諦めも滲んでいるように思えます。「大君のみこと」ゆえ闘はね

 ばならぬ恐怖や苦難、われらそれに耐えてこそ奈良の都の官僚たるべ

 し、という使命感におのれを奮い立たせながらも、「行きのまにまに」旅寝

 をせねばならない身の上に対する嘆息が聞こえるのです。

   この歌を詠んだ二ヶ月ほど後に、雪宅満は壱岐で「鬼病に遭ひて死

 去」します。猛威を振るっていた疫病に罹患した、一人目の被害者とな

 るのです。万葉集にただ一首残された彼の歌は、天平時代を生きた

 官人の悲嘆を今に伝えているようです。


   

  

inserted by FC2 system