第  25  回  
(2021年10月

寺尾 登志子

  

                            紀女郎(きののいらつめ)その二 


         前回は「怨恨歌三首」のうちの一首を読み、「世間並みの女のよう

      に恋を全うできない恨み」に注目しました。

         題詞によると紀女郎は鹿人大夫(かひとのまへつきみ)の娘で、

      名前は小鹿(をしか)、そして安貴王(あきのおほきみ)の妻である

      ことが分かります。小鹿、活き活きと魅惑的な呼び名ですが、万葉集

      は遊行女婦(うかれめ)以外に女性の名を記さず、例外的な記載です。

        たぶん父の紀朝臣鹿人が高級官人かつ歌人でしたから、鹿人の娘

      という意味で「子鹿」という通称があったように思います。本人も女官と

      して、上流階級の人々に立ち混じって活躍し、歌人として名を知られ

      る存在だったのかも知れません。

        さて、夫の安貴王ですが、さわらびの歌で名高い志貴皇子の孫で、

     温雅な優しい人柄を思わせる歌を四首残しています。そこで注目され

     るのが、若き日に采女(うねめ)と恋仲になり不敬罪で追放された来歴

     を示す長歌と反歌です(巻四・534、5)。

       采女は天皇以外の男が触れてはならない存在でしたから、皇族がら

    みのスキャンダルは世間の耳目を騒がせ、その関心に応えるかのよう

    に、安貴王は采女との悲恋を歌い残しました。皇族の道ならぬ恋は、

    万葉の昔から大勢の関心を引く恰好の話題だったようです。安貴王

    の長歌と反歌は歌物語として享受され大いに話題となったことでしょう。

  後に、安貴王は紀女郎を妻とするのですが、そんないわく付きの

    有名人の妻ですから、紀女郎も何かと社交界の興味を引く存在と

    なったのではないでしょうか。「怨恨歌三首」の二首目を読んでみまし

    ょう。

       今は吾(あ)は侘びそしにける気(いき)の緒に思ひし君を

       ゆるさく思へば               巻四・644 

       二句の「侘び」は打ちひしがれ、悲嘆すること。「そ」は「ぞ」と同じ

   で、「侘びぞしにける」と係り結びの強調によって二句切れとなってい

   ます。結句の「ゆるさく」は「ゆるす(手放す)」に接尾語「く」が付き、

   名詞化した言い方です。

      今となっては、私はただ打ちひしがれるばかりです。息の緒(命)と

   思っていた貴方を、遠く手放すことを思うと。

       ここで、かつて追放された夫の恋の顛末を重ねれば、歌の悲嘆は

   采女の嘆きとなり、前回読んだ一首目の「世間並みでない女」からは、

   自由に恋の出来ない「采女」という立場が浮かびます。世間の女のよ

   うには恋の出来ない自分を見つめ、恨み、そして別れを悲嘆する心理

   の流れが、今回の二首目との間に生まれます。

      「怨恨歌三首」とは、紀女郎がかつての夫の恋人に成り代わって詠ん

   だ歌ではなかったか。歌人としての自負が小鹿に采女の悲嘆を歌わせ、

   それは同時に「安貴王の妻」たる己の自負ともなったはず、そんな想像

   に誘われるのです。

      次回は「怨恨歌三首」の三首目を取りあげ、連作としての構成を

   読み解いてみたいと思います。




  

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