第  23  回  
(2021年8月

寺尾 登志子

  
    
                           家持の蜩(ひぐらし)

    厳しい暑さの中、旅はおろか友人と会うことさえままならない日が続

    いています。感染防止のため否応なく家に籠もる、気晴らしの少な

    い暮らしに、気分はどうしても落ち込みがちです。憂鬱で億劫な気

    分を持て余す時、ふと、この状態は家持が好んで歌った「いぶせし」

    ではないか、と気が付きました。

      「いぶせし」とは、鬱欝と心が晴れない状態を言う形容詞で、

    「いぶ」は「いぶかし」、「せし」は「狭(せ)し」に通じます。元々は、

    古代の物忌みなどで男女関係が禁じられた折の、性的欲求不満

    が原義にあったそうですが(『万葉語誌』)、広く心の満たされない

    状態を思えば良いでしょう。

     千三百年も昔、大伴家持もたびたびこんな気分に陥り、それを

    短歌に残しました。笠女郎との別れに際しては、「今さらに 妹に

    逢はめやと 思へかも ここだ我(あ)が胸 いぶせくあるらむ」と

    詠んでいます。「もう二度とは貴女に逢わないだろうと思うからか、

    こんなに私の胸は鬱欝としているのでしょう。」

      笠女郎への返歌は、まさに「いぶせし」の原義が思われる内容

    でしたが、今回は、晩夏の愁を「いぶせし」と詠んだ一首を読んで

    みます。

      隠(こも)りのみ 居ればいぶせみ 慰むと 出(い)で立ち聞けば

      来鳴くひぐらし               巻八・1479 

      二句の「いぶせみ」は、終止形の語幹に接尾語の「み」が付い

   た形で、「~ので」と訳します。この歌には「大伴家持晩蝉一首」と

   いう題詞が付いており、「晩蝉」は漢語で「秋の蝉」のことを言います

   が、この一首は巻八の「夏の雑歌」に分類されているので、

   「夏の日暮れの蝉」すなわち「ひぐらし」を指しています。

   家に引きこもってばかりいると気が鬱(ふさ)ぐので、気晴らしに外に

   出て耳を澄ませば、すぐ近くに来て鳴くヒグラシの声よ。

     晩夏の夕べ或いは早朝に、遠く近くカナカナカナと鳴き交わす

   のが聞こえると、空一面に潮騒が響くようで、固まっていた心がすっ

   と広がるのを感じます。

     家持がなぜ家に籠もっていたのかは解りませんが、この歌を読む

   と、しばし彼と共にヒグラシの鳴き声を聞き、憂鬱を分かち合えたよう

   に思えて心が和むのです。

     一説によれば、この歌、天平八年より以前の作だろうと言われ

  ており(伊藤博『釈注』)、とすれば家持は十代後半で、官位役職を得

  て活躍する以前の、心の原型のようなものが表された一首と読むこと

  が出来ます。家持といえば、後年の春愁三首(巻十九)が有名ですが、

  ヒグラシの声に耳を澄ませる青年の愁いにも味わい深い「あわれ」が

  感じられ、家持の歌に通奏低音として響く「いぶせし」をあらためて思う

  のです。




 

  

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