第  11  回  
(2020年8月

寺尾 登志子

 
            笠女郎(かさのいらつめ)その一

  毎日大鍋で炙られるような熱波に苦しんだ八月でしたが、笠女郎が大伴

 家持に贈った恋歌29首は、今夏の酷暑に劣らぬ熱量で万葉集に屹立し

 ています。恋する若い女の激しい情念は、近代の『みだれ髪』と比べても遜

 色ありません。

   どちらも自らの文才を頼みに華麗なイメージを次々繰り出し、早熟さと

 手練手管の混在する、アンバランスで一途な恋心が定型から溢れ出てい

 ます。

   ただし、笠女郎の恋は与謝野晶子と鉄幹のようにはゆかず、短期間で

 終わりを迎えました。ここでは何回かに分けて、彼女と家持の恋の成り行き

 を追ってみたいと思います。今回は初々しい恋の芽生えを、二首の歌から

 読み解いてみましょう。

  名門大伴氏の嫡男に対して笠氏は中小の氏族であり、女郎は初め、相

 手の身分に一歩も二歩も引いていたようです。身分違いの貴公子への憧

 れが、恋の始めにありました。

   託馬野(つくまの)に生(お)ふる紫草(むらさき)衣(きぬ)に染(し)

  めいまだ着ずして色に出(い)でにけり             巻三・395

   「託馬野」はどこか不明ですが、近江の地名という説があり、額田王と大

 海人皇子の「紫野」のイメージが重なります。その紫草で着物を染めたとい

 うのですが、「紫」は高貴な色で家持を暗示しています。上の句、私の心は

 あなたに染められてしまった、というのです。

  下の句は、まだ着物を重ねて共寝もしないうちに、私の恋心は表に出てし

 まいました、と羞じらいながら相手の気を引いています。「色に出でにけり」

 つまり世間の人が気づいてしまうかも知れないと、不安を訴えながら、どう

 ぞ振り向いて下さいと懇願している一首です。同じ時に、次の歌も家持に贈

 られています。

     奥山の岩本菅(すげ)を根深めて結びし心忘れかねつも巻三・397

       上三句が「結びし心」の序詞になっています。奥山の岩の根本に

  生える菅が地中深く根を伸ばす映像を、「深く結びあった心」に重ね

  ているのです。心が忘れられないといいつつ、菅の「根」には「寝」が掛けら

  れていて、二人が結ばれたことがさりげなく示されています。

      掛詞は古今集から発達し洗練されてゆきますが、万葉集にも長皇子の

  作品などに若干の例があり、表現に貪欲だった笠女郎が野心的に用いた

  ものと考えられます。笠女郎は家持に、二人の初夜の記念としてこれらの歌

  を贈ったのではないでしょうか。この時家持は十五歳、笠女郎は少し年上

  だったようです。二人の相聞が交わされたのは天平五年(733)頃で、女郎

  との恋を皮切りに多感な大伴家持の、恋と和歌に彩られた青春遍歴が始ま

  ってゆくのです。

 

【トップページへ】    バックナンバーへ  】

 

inserted by FC2 system