第  8  回  
(2020年4月

寺尾 登志子



    年齢を重ねてありがたいと思うのは、振り返る時間の堆積に厚みが増した

  ことです。日々刻々と変容する外界に、心身が追いつけなくなってゆく代償

  の果報でしょうか。来し方は感傷だけでなく、心細く不安な現在に揺らぐ心

  の、自分だけのささやかな添え木のようにも思えるのです。

     万葉集に触れたのは半世紀前、高校の教科書で出会った次の一首が、

  その後連綿と続く万葉追慕のきっかけとなりました。

      君が行く道の長手を繰り畳(たた)ね焼き滅ぼさむ天(あめ)の火

      もがも                                    巻十五・3724

     作者は狭野弟上娘子(さののおとかみのをとめ)、弟上でなく茅上(ち

  がみ)と伝える本もありますが、私の記憶には「弟上」で刷り込まれています。

  一読して激しさにショックを受けました。

     「あなたが行く道の、その長い距離をたぐりよせ、焼き滅ぼしてしまう天の

  火が欲しい!」と天に拳を振り上げ、切なさのあまり泣き叫ぶ女人の姿が目

  に見えるようです。

     「君」とは官人の中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)、娘子も下級

  の女官でした。目録(目次)によれば、宅守は娘子を娶ったとき勅勘を蒙り

  越前へ流罪となりました。新婚の夫婦が都と越前の配所に生き別れ、悲嘆

  の贈答歌が交わされ、巻十五は後半部にその63首を載せています。

     天平11年(739)の事件ですが、宅守が何のために流罪となったのかは

  分かりません。二人の結婚自体が、禁忌に触れるものだったとする説もあり

   ますが、娘子は天皇に仕える采女(うねめ)ではなく、律令体制が産んだ当

   時のキャリアウーマン的存在ですから、何ともいえません。

       新婚早々の二人は、今でいう国家官僚の共働きカップルです。新婚の

  悲劇は当時宮廷内で評判となり、二人の歌群は後宮の女官たちなどの紅

  涙を絞ったのではないでしょうか。

    取りあげた一首は、歌群冒頭で夫との別れに臨んで歌われました。この歌、

  万葉出色の相聞歌として有名ですが、土屋文明は「表現が誇張的で、現在

   なら姿体が見えすぎると評さるべき」と述べています(『私注』)。

      けれども、文明の批判的感想はむしろ、一首が持つ現代性を指摘して

  います。一人の高校生の脳裏に、別離に絶望し悲嘆する女性の映像を浮

  かばせたのですから。

  なお、「天の火」について中西進の新著(『万葉集愛の100首』)に面白い

  指摘がありました。「天の火」とは「災い」のこと、「天は不当な人事に怒って

  災害を起こすとした」ことが中国の書『左伝』に見えるそうです。

     不当な人事の裏には政治的弾圧や冤罪が想像され、その不当を訴える

  ために娘子がこの一首を作ったとしたら、恋情や追慕の激しさだけでなく、

   真実や正義を希求する人間的な情念が見えてきます。


  

      





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