第  7  回  
(2020年3月

寺尾 登志子



     新型のコロナウィルス禍で自宅に籠りがちですが、おかげで今年は

  三月一日にウグイスの初音を聞きました。草木も次々と芽吹き始め、彼岸

  すぎには花々が競うように咲き溢れ、めぐりは春たけなわの風情です。

     「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」祝婚歌

  の定番として名高い前田夕暮の作品ですが、夕暮も故郷秦野盆地の春を

  思い描いて歌ったのでしょう。薄緑にけぶる丹沢や大山に、辛夷、きぶし、

  すもも、木蓮など、木々の花が彩りを添えています。そんな山並みに向かっ

  ていると、心もほのかに明るむようで人懐かしい気分になるものです。

     万葉集の相聞歌で「春山」を詠んだのは笠女郎(かさのいらつめ)でした

   恋の相手は、若き日の大伴家持です。

       水鳥の鴨の羽色(はいろ)の春山のおほつかなくも思ほゆるかも  

                                           巻8・1451

    「水鳥の鴨の羽色」とはオスのマガモの美しい頭部の青緑色を表します。

  春山の初々しい青みを言いながら、水辺に遊ぶ鳥の姿も浮かばせる所が

 韻文ならではの味わいで、その「春山のように(霞んでぼんやり)」と下の句

  に続きます。「おほつかなく」は清音ですが現代語の「覚束ない」とほぼ同じ

  く、相手の心がはっきりせず不安だと言っています。
              
     上の句の景色は下の句の心情を引き出す序詞で、おぼろに霞む春山と

  水鳥の景を優美に添えながら、煮え切らない男にはっきりさせてよと迫って

  おり、歌の巧さもさることながら、恋の手管もなかなかだったようです。

       笠女郎が家持に贈った恋歌は全部で29首ありますけれども、家持の

   返歌は一首もありません。女流歌人の才気に感服しながらも、恋の相手と

   しては一歩も二歩も引いていたのかもしれません。

       後年、家持は「水鳥の鴨の羽色」というフレーズを用いて、次の歌を詠

  みました。

             水鳥の鴨の羽色の青馬を今日見る人は限りなしといふ

                                                                       巻20・4494

        正月七日の節会のために用意した一首で、鴨の羽色の青馬(灰色の

   馬のこと)を「今日見る人」は、寿命が限りなく伸びるといいますよ、と歌っ

  ています。晴れの場で奏上する歌に、家持は若き日の恋の記憶をそっとし

  のばせたのでしょうか。残念ながら当日の儀式は取りやめとなり、

  披露するには至らなかったのですけれども。




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