「錦帯橋の魅力の原点」 原 田 俊 一
錦帯橋の創建者は吉川広嘉公(吉川家第19代・岩国第
3代領主1621~1679)であります。広嘉公は、病気
の治療のため、京都に長く滞在しました。生来の聡明さと
交流の才を発揮し、当時の画壇の筆頭狩野探幽等などと
交流し、日本画などの真髄を学ぶなど日本文化への造詣を
深めました。
広嘉公は、領主になる以前から錦川に流されない橋を
架ける構想を強く意識し、1659年若き棟梁児玉九郎右衛門
を抜擢し、大月の猿橋の見学をさせています。さらに記録所
役の能吏真田三郎右衛門、近習役の小河内玄可(こごうち
げんか)など大橋創建の陣容を整えました。
なお、病気治療のため1664年招いた明の帰化僧・独立性
易禅師(長崎在住)との対話の中で、独立禅師の故郷の名勝
「西湖」が話題になり、『西湖遊覧志』を長崎より取り寄せ、西
湖に架かる蘇公の築いた六連の橋に注目します。そして錦川
に島(石組みの橋脚)を構築するヒントを得たのであります。
それは吉川家高祖・藤原南家のものづくりの伝来の遺伝子がも
たらした天啓とも言えましょう。
広嘉公は、大橋架橋の基本的な構想の「流されない橋」の命
題に加え、狩野探幽から受けた「人的建造物は周りの風景との
調和し慎ましやかで風雅な容姿を重んじるべきである」との日本
文化の趣向を取り入れるべく架橋技術者達に伝えました。
大橋架橋発想から14年もの歳月が流れ、その間いろいろな試
行準備がされ、1673年出来上がったものが現在の錦帯橋の容
姿であります。まさしく周りの城山の照葉樹林の緑・清流錦川の
青 と調和し、慎ましやかで風雅な木組みの五連(いつら)反り橋
であります。無塗装の白木造りで、反り高は極限まで低く、5列
の木組みの迫持式拱助桁を和鉄の巻金と鎹で結束した超長径
間の反り構造であり、4個の反りのある紡錘状の石組橋脚は、
多くの石を用いた護床工が施されています。原材料の木材・和鉄
・石材は近燐から調達されました。錦帯橋は世界に類例のない
日本近世の文化財であり、Sustainable Development Forever
な建造物で、一橋ごとの解橋復元を約20年おきに行い、来年は
350年を迎えます。
短歌一首
「水墨の風趣あらわし錦川にひそやか架かる
五連(いつら)反り橋」
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