奏でる短歌③ 川野里子歌集『歓待』 和 嶋 勝 利
「はまなすが咲く頃」「はまなすが咲く頃」
そこから先のあらぬ知床
川野里子『歓待』
話せなくなれども歌はよみがへる不思議な母が歌ふ知床
老耄の母と疲れたわれ歌ふ呻きのやうな知床の歌
歌集『歓待』は、川野の母の死から逆編年体で編まれている。
母との記憶を遡ろうという川野の意図である。
身体が弱って話せない母、また、川野自身が「老耄」と表現す
るその母が「知床旅情」を口ずさんでいる。音楽がもたらす恩恵
なのだろう。母を冷静に見守ってきた川野が「不思議な」と表現
する。この戸惑いに川野のやさしさとかなしさがある。
しかし、母の歌は、「はまなすが咲く頃」から先に進まない。
「知床旅情」は、次のように始まる。
知床の岬に はまなすの咲くころ
「知床旅情」作詞:森繁久彌
このことから、母の歌は、ほぼ曲のはじめのところから進まな
いということになる。川野も母にあわせて歌おうとするが、
それは「呻き」のようであるという。この「呻き」とは、川野の
嘆きであり、ほとんど嗚咽なのではないか。
『歓待』は、その冒頭から読者の胸を締め付けるが、掲出歌が
ある「知床旅情」の一連も印象に強く残った。
ところで、森繫久彌による「知床旅情」だが、俳優の山崎努が
日本経済新聞の「私の履歴書」のなかで以下のように述べて
いた(2022年8月22日)。
あの名曲「知床旅情」はこの映画(和嶋注:「地の涯に生き
るもの」)の宴会シーンで森繫さんが即興で作詞作曲したもの
である。
「地の涯に生きるもの」が1960年の映画で、川野里子が生まれ
たのが1959年であることから、「知床旅情」は川野の母にとって
川野の成長の思い出のような曲なのではないか。例えば子守唄
のような。だから母は川野との二人きりの時間に思い出し歌いだ
したのではないか。そんな想像にかき立てられた。
しかし、それは見当はずれであった。「知床旅情」は、まず、
1963年に「オホーツクの舟唄」としてレコーディングされて
いた。この「オホーツクの舟唄」と「知床旅情」では歌詞が
違う。「オホーツクの舟唄」は「オホーツクの海原 ただ白く
凍て果て」と始まるのである。
川野の母の歌は、「はまなすが咲く頃」であるから、
「知床旅情」であり「オホーツクの舟唄」ではない。
その後、1965年に森繫久彌が「しれとこ旅情」として
リリースし、1970年の加藤登紀子の「知床旅情」により
大ヒットとなった。
『歓待』は「記憶」が通奏低音となっている。
掲出した二首目の「歌はよみがへる」に、
河野の切実な思いを読み取る。
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