巻 頭 エ ッ セ イ

<35>  痕 跡 本  


2021 年 5月


里 見  佳 保 

 
           痕 跡 本      里 見 佳 保

      コロナ禍で家時間が増えたこともあって、長年読みたかった

    本を手に入れることにした。ぜひ、と思った一冊が飯田龍太

     『甲斐の四季』。我が師三枝昂之の文章に記されていてずっ

     と 気になっていたが、昭和58年の刊行であるから当然、

     一般の書店では手に入らない。そこでネットの古本・古書販

    売を利用することにした。

    待つこと数日、届いたのはいわゆる「痕跡本」だった。痕跡本

    とは古沢和宏氏による造語で、線などの書き込みがあったり、

    メモ用紙等が挟まっていたりなどの、前の持ち主の痕跡が残

    された古本の事。

    私のもとにやって来た『甲斐の四季』にはまず表紙をめくると

    前の所有者であろうSさんのフルネーム、蔵書印、そして購入

    したと思われる年月日がていねいに記入され、緑色の帯は

   「秋のころ」のページに挟んであった。

   本文は春夏秋冬の4部でそれぞれの季節ごとの龍太作品、

   小話で構成されているが、あちこちに赤く細いサインペンで線

   が引かれている。例えば22ページ2行目、「いつか米寿を重

   ね、さらに鳩寿五齢を加えて、」の横には八十八―九十三と

   漢数字。32ページ9、10行目では「余分の想像をつけ加え

   ないで、作品そのものを素直にながめる、これも俳句をたの

   しむ大事な要件のひとつだろうと思う。」に長い線。俳句作品

   のページでは大きな丸がついていたり、赤で季語をぐるっと囲

   んでいたり、ところどころ鉛筆で二重丸が付けられた句もあっ

   た。元のテキストに加えられた線引きや書き込みは龍太とSさん

   との対話。Sさんが歩んだ道すじ。私はその道を行きながら、

   でもまったく同じ歩き方ではなく『甲斐の四季』の時間を過ご

   した。この人はなぜここに線を引いたのか。なぜこの句に丸を

   つけ、隣の句にはつけなかったのか。Sさんと私との対話が

   加わるのは痕跡本ならでは。決して会うことのない人との二人

   連れの読書もまたいいものだと思った。

   Sさん、私もこの句、好きです。

              かたつむり甲斐も信濃も雨の中 飯田龍太


   

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