<その5>


2005年11月


三枝浩樹
 歌を何年も、何十年も作り続けているのに、歌というものがどうにも分からなくなる時が誰にもあるのではないか。時々全く分からなってうろうろする時が。まあ、それは私たちが一番長い間付き合っている人生だって同じことである。いつまで経っても自分というものが分かったようで分からない。分かったつもりになっても、しばらくすると、また分からなくなる、そんな繰り返しを歩み続ける他はないのであろう。

   
また          きぐさ
   全くして足らざるはなき木草らようつくしき
   移り見つつ生きなん
   
こら
   堪
へつつ最後の線に生くる身とおもふこころ
   の老ゆれど去らぬ
             窪田空穂『木草と共に』

 空穂八十七歳の作。庭の木草にたいするかかる感応。それは「全くして」という思い、「足らざるはなき」という思いが備わっていない自分に向き合う目があってのことであり、そのまなざしが木草にそそがれて生まれた感慨であろう。「うつくしき移り見つつ生きなん」は木草の変化を愉しく見守ってゆこうという思いであるが、その背後に自然という大きな力に身を委ねることを肯おうとする姿勢が見えてくる。
 次は「心の飢」という題の付いた一首。若い頃を省みつつ、生きる困難さが老境にある今もいささかもなくなっていないことを歌っている。「堪へつつ最後の線に生くる身」という自覚の中に八十七歳の今もあるというのである。真摯に生きようとすれば、このような不全性や崩壊感覚に向き合わざるをえないのが私たちの生なのだろう。馬場あき子の歌にあるように、真に「迷いなき生などはなし」なのである。
 ところで、話を戻して歌が解らなくなった時、どうするか。あなたならどうしますか、と聞いてみたい気がする。ちなみに、私は最近、吉田加南子の『詩のトポス』という詩論集をゆっくり読む。ときどき、彼女の文章を読み返すことがある。急いで読むと、彼女の文章はわからないから、ゆっくり読むのである。そうすると、ふっと肩の力が抜け、すこし元気が出てくる。萎れていた草に露が降りるように、少し元気になれる。
 
  ・・
  あと。
     ・・
  けれどあととは、過去の時間だけに関わるものだろ
     ・・ ・・
  うか?あとをあととして見るとは、見ているおのれ
  の現在を確認していることに他ならず、であるとし
  たら、その時そこにはたらいているのは、現在を現
  在たらしめているもうひとつの時間、現在を通過す
  る時間―未来、と名づけるべき時間ではないだろう
  か。    (吉田加南子『詩のトポス』
46
)

なるほど、「現在を通過する時間」か、とひそかに相づちを打つのである。

過去の「つれづれなるまま
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