第 2 回  
(2017年 8月

寺尾 登志子


もののふの八十(やそ)宇治川の網代木にいさよふ波の行く方(へ)知らずも             
                         
                         柿本人麻呂 万葉集3 二六四
 
  詞書に「近江より上り来たる時、宇治河の辺に至りて作る歌一首」とあります。

「近江」とはかつて栄えた「大津京」が、壬申の乱で灰燼に帰した所です。

  掲出歌は、人麻呂が近江から飛鳥の都へ帰京する折に、宇治川のほとりで

詠まれました。人麻呂作品には大津京の滅亡を悼んだ長歌「近江荒都歌」が

あり、持統朝で大いに好評を博しましたが、その長歌成立と掲出歌の関わりは

わかりません。けれども、作者にとって「近江」とは人の手によって栄えた文物

が、人の所業によって跡形も無く壊滅し、華やかだった大宮人が多数戦死して

いった、この世の有為転変を示す象徴的な土地でした。

  「もののふの」は中世から武士を指すようになりますが、本来は「文武百官」を

言いました。朝廷には多くの「もののふ」がいたことから、多数を示す「八十」の

枕詞となり、古来より天皇家を支えた数多の氏(うじ)を表す「もののふの八十

氏」というフレーズが、同音の「宇治」の序詞として用いられています。

  「もののふの八十」は宇治川の豊かな水量が滔滔と流れる様子に冠せられ

た麗句と言っていいでしょう。「網代木(あじろき)」は、宇治川の水流を杭で堰

き止めて魚を捕る仕掛で、宇治川といえば網代木の景色が有名でした。

  (もののふの八十)宇治川の網代木に遮られ、勢い余って滞った川波が、

その後どこへ流れていったのか、分からないことだ。

  下の句からは無常感が読み取れますが、「もののふの八十氏」から連想さ

れる文武百官や様々な氏族のことにも思いが及びます。滅びた近江朝と命運

を共にした 「もののふ」たちの無念、滅ぼした側の「もののふ」たちを待つこの

先の命運、そんな人為のあてどなさをも、人麻呂は見つめていたように思うの

です。




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